2012年08月26日

夏の風景(6)

昭和7年のアルバイト

夏休み中の大学生のアルバイト、というのは今も昔も変わりませんようで。

軽井沢での食料品配達。
アルバイト 昭和7年1

丸ビル菊屋の軽井沢出張所という所で、洋食料品の配達をしている早稲田の平佐君と林田君。


アルバイト 昭和7年2

こちらも軽井沢、泉氷店で働く明大の野口君。
「九月の初めまで働く予定で、まあ下宿料の二三ヶ月分にはなるつもり、東京に居るよりは涼しくて面白いよ、ワッハッハ」


アルバイト 昭和7年3

喫茶「早稲田」は早大の学生五人の共同出資で逗子海岸に作られたお店。
一人五十円で合計二百五十円が資本。
早大の小宮、加倉井、池田、佐藤、渡辺の諸君。


逗子海岸のキャンプストア
アルバイト 昭和7年5

キャンプストアというのは今でもあるようですが、この写真の所は製菓会社(明治製菓?)が学生支援のために開いていたようです。
いろんな学校の人がいて、帝大、明大、法政、慶応、商大、東工大の学生で、寺師、鵜野、田中、遠山、竹内、樋口の諸君。
誰が誰かはわかりません。
なんだか若い女性のお客さんに愛想がいい感じ。


アルバイト 昭和7年4

デパートでも夏になると学生の臨時店員を雇ったそうです。
東京松屋の提灯売り場?で働くのは、立教の榎本君と帝大の大山君。
デパートはさすがに給料が決まっていて、食事付きで1日1円50銭だそうです。
15〜20日間という期間らしいので、帝大生の大山君なら2〜3ヶ月分の授業料が稼げるわけです。


学生諸君は夏は労働に勤しみたまえ。

写真はアサヒグラフ昭和7年8月17日「海に山に働く学生」より


つづく
 
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2012年08月22日

夏の風景(5)

昭和3年の逗子
逗子海岸 昭和3年

こちらは関東、神奈川の逗子海岸。
大正時代からの海水浴の名所だそうです、行った事ないですけど。

海水浴は夏の娯楽の王者、デパートとしても季節の主力商品となります。

ちょうど昭和3年の三越の広告。
三越広告 昭和3年


こちらは4年、日本橋白木屋の商品。
水着 白木屋商品 昭和4年

海水着 トンボーイ型、ラッセル型(どう違う?)いずれも7円
帽子 1円60銭〜2円80銭
海水靴 ヘチマ底70〜90銭、総ゴム1〜2円
海水ケーブ タオル製2円70銭、ファンシークレープ16円
絵日傘 3円50銭〜5円50銭
ファンシークレープ、お高い。

モデルは蒲田の女優さん達で、左から辻英子、花岡菊子、宝光子さん、だそうです。


つづく。
 
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2012年08月18日

夏の風景(4)

昭和8年の盆踊り
東京音頭1

昭和8年と言えば、なんと言っても「東京音頭」の大流行。
写真は帝都舞踏場で行なわれた盆踊り舞踏大会。
帝都舞踏場というのは、新宿にあった映画館「帝都座」内のダンスホールだそうです、天井にミラーボールなんかがありますね。
いつもはドレス姿のダンサー嬢が今日は浴衣で東京音頭、というわけです。
盆踊りといいながら撮影は9月7日でした。


キャバレー赤玉(大阪)の東京音頭大会
東京音頭2

こちらは8月8日。
流行は全国的、さらにブラジル、アメリカの在留邦人にまで。
売り上げは100万枚とも130万枚ともいわれています、とにかく大ヒットでした。


東京音頭3


つづく
 
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2012年08月15日

夏の風景(3)

女学校の海水浴
臨海学校 昭和2年

昭和2年
大阪府立清水谷高等女学校の生徒さんたち。
大阪玉造にある清水谷高校の前身ですね、現在は共学。
臨海学校ということでしょうか、場所は堺市の諏訪ノ森海岸。
太鼓を合図に海に突進、ああ楽しそうですね。


南海諏訪ノ森駅1

南海電鉄「諏訪ノ森」駅は大正以来のステンドグラスと昔の駅舎が保存されている事で知られています、国の登録文化財だそうです。

南海諏訪ノ森駅2

松林と浜辺、沖には淡路島、昭和2年の女学生も見たステンドグラスは今も見ることが出来ますが、泳げる海岸はもうありません。


つづく
 
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2012年08月12日

夏の風景(2)

昭和5年の軽井沢
軽井沢 昭和5年

軽井沢は明治時代から外国人の別荘地として開発されていましたが、すでにこのころには避暑を兼ねた観光地にもなっていたようです。
軽井沢というだけで、なんかちょっと涼しそうな気がする写真。
道にいる子供もどことなく上品そうに見えるのは気のせいか。


木陰の昼寝
木陰の昼寝 昭和4年

昭和4年、大阪市内の「児童の動物園」という所らしいのですが、どこにあったのでしょうか。
天王寺とは違うんでしょうね。
何人いるんだ、というこの子達は市営託児所の子供達だそうです。


つづく
 
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2012年08月09日

夏の風景(1)

8月は暑いですしね、何かといそがしい。

ブログのほうも、手抜きというわけではないですが、まあアッサリと、戦前写真から、夏らしい風景などを探してみましょう。


昭和9年の夏服
昭和9年 夏の装い

昭和9年の夏も暑かったそうです。
「脛の暴露、襟の開放」という記事から。
男性はネクタイを締めず、女性はストッキングを履かない、という事が話題になっていたようです。
この二人連れは、お揃いのコンビの靴とか、なかなかおしゃれですね。


三越の麦茶
三越の麦茶

昭和10年夏
日本橋三越本店の入り口で、冷やし麦茶のサービスがあったそうです。
冷蔵庫や販売機が普及していなかった頃にこれはありがたいですね。
今でもやればいいのに。


松坂屋屋上プール
松坂屋 屋上プール

こちらもデパート
昭和10年、大阪松坂屋の屋上にプールが出来ていたそうです。
屋上特設ということで、深さは大人の腰くらいでしょうか、でも眺めがいいし、滑り台みたいなのもありますよ。


つづく

 
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2012年07月28日

オリンポスの果実

「オリンポスの果実」は昭和15年に発表された田中英光の小説です。
青春小説の名作、ということで御存じの方も多いですね。
私も十代の頃に一度読みまして、例によって内容は全然憶えていなくて、今回また読んでみました。

ざっくり言えば、せつない青春恋愛小説。

そして、作者のオリンピック体験を元にした珍しい五輪小説とも言えます。
作者の田中英光は1932年のロサンゼルスオリンピックのボート競技代表選手。
渡米時の船旅やアメリカでの歓待の様子など、当時の五輪代表選手としての生活が垣間見えて、そういう点でも面白い小説です。

1932ロス五輪漕艇選手団クリックで拡大

写真は、アメリカに向う日本郵船「大洋丸」船上の漕艇競技代表選手達。
田中英光は中央右寄り一番後ろにいる人、180センチあったそうですから、当時としては大きかったんですね、この時19歳。
小説の中では女子選手から「ぼんち」とか「ぼんぼん」とあだ名を付けられますが、確かにそんな感じです。

田中英光19歳

この船上で出会う恋の相手の熊本秋子は陸上走り高跳びの選手、実際には相良八重という人がモデルだそうです。
出身の日本女子体育大学のサイトに御写真がありました。

相良八重さん

結局この小説は、主人公がこの女性の事を好きで好きでたまらない、という事が語られ続けます。

最後の一行に集約される、長い長い恋文のような小説、とも言えるかもしれません。


実際の二人の姿を知った上で読んでみるのも一興、オリンピックの夏に、せつない気持になりたい人は、一読いかがでしょう。

青空文庫「オリンポスの果実」


1932ロス五輪エイト競技

田中英光が出場したのはエイトという八人で漕ぐ種目、カリフォルニアのロングビーチで行なわれました。

右から三人目が田中氏、結果は予選敗退でした。


がんばれ!ニッポン! がんばれ!ニッポン!
 
 
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2012年07月22日

昭和10年の海水浴

さて、夏休み、入りましたけども。
私はあんまり関係ないんですけどね。

気がつけば、この時期毎年、戦前の海水浴場の記事を紹介してる気がしますよ。
一応季節的な事も考えてるんですかね。

今回は昭和10年の浜辺を。
アサヒグラフ 昭和10年8月7日
「浜へ出て見れば 〜顔負けする明朗性〜」という記事です。

昭和10年の海水浴01

昭和10年の海水浴02

昭和10年の海水浴03

昭和10年の海水浴04

波の魅惑……濃紺の水、白い飛沫、流動反撹する永久の継続運動に、人間は、こよなき魅惑をうけるのだ。
人間の原始性が裸形と一緒に戻ってくる。
長屋の八公も、地主の令嬢も、ひとしく水に浸り、砂に埋れる。
海に憧がれをもつは、暑さばかりの為ではない。
形態から脱し、自然に呼びかける人間の切なる気持からだ。
だが、裸になっても、まだ鼻にぶらさげるものがあったり、目で見下したりするものの多いのが、都会付近の海水浴場での姿だ。
だから、裸と一緒の素直な人間の気持を出して下さいと祈りながら、カメラのピントを合したのが、これらの海浜風景である。

昭和10年の海水浴05

昭和10年の海水浴06

昭和10年の海水浴07

昭和10年の海水浴08


都会付近の海水浴場とありますが、どこなんでしょうか、記事からはわかりませんでした。

いつもの事ながら、ほとんど現在の海水浴風景と変わりませんね。
パラソルもある、ビーチボールも、海の家みたいのや、犬の散歩や、なんか人がいっぱいだったり、砂浜で転がってたり。

ただおそらく決定的に違うのは、海水が今より断然キレイ、という事ではないでしょうか。

古い写真で見ても、何だかそんな気がしますね。
 
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2012年07月11日

昭和八年 山田五十鈴 十六歳

「盤嶽の一生」

これは昭和8年(1933)公開
山中貞雄監督「盤嶽の一生」という映画の宣伝記事の写真です。
この時、山田五十鈴さんは16歳だそうです。

山中貞雄の作品は現在三本しか残っていないそうで、この「盤嶽の一生」も見る事は出来ません。
面白い小説ですからきっと映画も面白かったことでしょう。

山田さんの映画デビューは、さらに三年さかのぼって昭和5年、13歳。
渡辺邦男監督の「剣を越えて」という作品で、やはり大河内伝次郎の相手役だったそうです。
それ以降の長いキャリアの中での華々しい活躍はみなさん御存じの通り。


当ブログでも何度か山田五十鈴さんが登場していました。

丹下左膳のポスターの記事の中で紹介したトーキー初期の濁点を抜いた台詞のエピソードは、山田さんの自伝からの引用なのですが、この本を読んだわけではなく、こちらのホームページの中にあった引用を、さらに引用したものでした。
http://www16.ocn.ne.jp/~ondoku/esseikirai.html
このページの中ほど、短い引用ですが面白い。
本来は国語教育における音読指導のホームページらしいです。

水着日和の写真は、記事では昭和七、八年と書いてましたが、どうやら昭和7年らしいです。
「盤嶽の一生」の前年、15歳ということになりますね。
ちなみに、夏川静江(23)佐久間妙子(24)滝花久子(26)
という計算になります。




不世出の大女優、といえば何人か思い浮かびますが、山田五十鈴さんもまた間違いなくその中に入る一人でありましたね。



山田五十鈴―映画とともに (人間の記録)
山田五十鈴―映画とともに (人間の記録)

 
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2012年07月05日

昭和8年のナイトゲーム

さて、夏の夜の楽しみといえば、ナイター観戦、という人も多いのではないでしょうか。

この「ナイター」という言葉は和製英語だそうで、本場米国では「ナイトゲーム」というのだそうです。

我が国で初めてプロ野球のナイトゲームが行なわれたのは、昭和23年(1948)の横浜ゲーリック球場(横浜スタジアム)における巨人対中日戦だそうですが、戦前にもすでに野球のナイトゲームは行なわれていました。

日本初の夜間試合は、昭和8年7月10日、新宿区西早稲田にあった早稲田大学戸塚球場での早大野球部の二軍対新人戦です。

そしてその8日後の7月18日から、夜間開場記念のクラブ対抗戦が行なわれたそうです。

戸塚球場 夜間試合01
ネット裏から
七月十八日夜間開場を記念するクラブ対抗戦第一日の三田クラブ対セントポールの試合。
スコアー・ボールドが夜空にくっきりと浮き出して、ストライク、ボールを知らせる赤青の標識灯が美しく点滅するのも珍しい風景だ。


戸塚球場 夜間試合02
団扇片手に
涼しいには涼しいが、観衆にとっての大敵が一つある。
蚊群の襲来だ。
ところ嫌わず刺されるので、さすが熱心なファンもたまらずパチリパチリと脛を平手でたたきながら、ああいい当たりだ、といった風な身の入れ方。


戸塚球場 夜間試合03
闇を蹴飛ばした本塁付近の明るさ


戸塚球場 夜間試合04
スタンド浴衣風景
みんな浴衣の略装で涼しそうだ。
ネットの付近を旋回する小鳥らしい姿に、おや又伝書鳩かなどと知ったか振りをして見たら、どうしてそれは夜が得意のこうもり君だったりして、昼間の玄人ファン達もタジタジするなど、中々夜のゲームはプレイ以外に見物がありますよ。


戸塚球場 夜間試合05
一塁側から見た球場


画像はアサヒグラフ昭和8年8月2日「〜夜を昼に〜夏の宵 涼み野球」という記事から。

記事によりますと

グラウンドの周囲に高さ百尺の鉄塔が六基建てられて、その上に光源が載っている。
光源の投光器は一台千五百ワットのもの、全体で百五十六台が球場に向って光を投げ、一万六千燭光の明るさで面積九千平方米のグラウンドを照らすのである。


という事です。
ちなみに
昭和23年の横浜ゲーリック球場は30万燭光
昭和31年甲子園球場に完成した照明設備は214万燭光だったそうです。
1燭光は1カンデラ、蝋燭一本の明るさなんだって。

この戸塚球場は、早稲田大学野球部が保有する球場でしたが、学生野球が中心だったこの当時、東京でも数少ない本格的野球場としてリーグ戦に使用されたり、昭和11年にはその年始まったプロ野球(職業野球連盟)の試合も行なわれたそうです。

そんな昭和11年の航空写真

戸塚球場 1936

国土変遷アーカイブより 1936/06/11 陸軍撮影
大学に隣接していたんですね、今の図書館のあたり。

その他にも、昭和6年日本初のテレビジョン放送の実験が行なわれたり、NHKによる初めてのプロ野球のラジオ実況中継放送が行われたり、いろんな日本初に係わる野球場だったのです。

夜間試合入場券

戸塚球場は昭和24年、早大野球部初代部長安部磯雄氏の功績を顕彰し安部球場と改名した後、昭和62年まで存在しました。
 
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2012年06月28日

「エロエロ草紙」を読んでみる

さて、噂の「エロエロ草紙」ですけども。
まあ、特に噂にもなってないんですけどね。

一部ネット上の狭い所で話題になっていたでしょうか。
どういう話題かと言いますと、国立国会図書館のデジタル化資料というものがありまして、権利の切れた昔の資料、書籍などを一般に公開しています。
その中に、昭和五年に製本中発禁処分を受けたという酒井潔著「エロエロ草紙」という本が加わったのだそうで、そのタイトルから興味を引かれた沢山の人達が閲覧している、という事のようです。

となりますと私も昭和前半期テーマでブログなどを続けている者として、一応は知っておかなければ、という事で。

あくまでも歴史的資料の確認という意味で。
けしてタイトルに引かれたという事ではなくっ。
しっかりと一冊全部読んでみましたよ。

エロエロ草紙01

昭和五年といえば、エログロナンセンスのまっただ中、著者の酒井潔という人もこの時期「性愛関連」とでもいうのでしょうか、そんな著作、翻訳がいくつも出版されています。
「談奇」という個人雑誌も出していました。

談奇 第一号

表紙写真の人物が酒井氏らしい。
なんかちょっと異国の人風ですね。
悪魔とか魔術関連の著作もあったりして、なにそれ怖い。
現在では個人研究の書籍なども出ているようです。

さて「エロエロ草紙」ですが。

まず図版がたくさんあって楽しいです。
そんなにエゲツないエログロ画ではありません。
おそらく酒井氏が収集した、海外の書籍や娯楽雑誌などに掲載されていた物ではないかと思いました。
現在まで続く伝統的な欧米スタイルのカットイラストです。

エロエロ草紙02

エロエロ草紙03

読み物や小話などの文章も海外の翻訳が多いようです。
目次を見ると、漫画のページに対して文章のページは「漫文」と記されています。

巻末自跋のなかで著者自身が「エロエロ草紙は、上品なエロと、朗らかなナンセンス、即ちウルトラ生活の二要素を具備するもの…」と記しています。
ウルトラ生活がどんな生活なのか分かりませんが、とにかく酒井氏の言う通り「エロエロ草紙」はむしろ健康的なお色気娯楽読み物、という感じで、発禁処分を受けるような突っ込んだ猥褻表現などは無いように思いましたが、それとて現在の価値基準の中で暮らしている我々の感覚で見た判断と言えるかもしれません。

私自身が興味深かったのは、翻訳読み物よりも、その時代の現象をそれこそリアルタイムな価値基準で書かれた文章。
たとえば47頁の「尖端ガール解説」の中のモダン・ガール、シーク・ガール、フォルム・ガールの変遷や、ステッキ・ガールや円タク・ガールが本当に存在したのかどうか疑わしいといった記述。
58頁「レヴュウ全盛時代」のちょっと辛口なレヴューブーム評もその当時の発言として貴重かと思いました。

エロエロ草紙04

ともかく、この「エロエロ草紙」が、いかほどにエロエロかということは、一度自身でご覧になって判断してみてはいかがでしょう。

国立国会図書館デジタル化資料

こんな感じで閲覧
→国立国会図書館デジタル化資料「エロエロ草紙」

いずれ国会図書館のやってる事ですから、超エロエロ変態猥褻図画などを期待しても、そんなのある訳ないんでガッカリしないでくださいね。

いや私はあくまでも歴史的資料の確認目的ですから、期待もガッカリもするわけないじゃありませんかいやだなあ、あはははは…。

国立国会図書館近代デジタルライブラリーには、他にも興味深い資料、書物がたくさん公開されているようです、興味のある方はこちらで調べてみてはいかが。
→国立国会図書館 近代デジタルライブラリー


ところで、「エロエロ草紙」が発禁となって半年ほど後の昭和6年6月に「エロ草紙」というレコードが出ます。
榎本健一と二村定一の楽しい掛け合いソングなんですが、こちらは世に出て人気を得ました、やっぱりエロくはないんですけどね。
 
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2012年06月22日

喫茶店流行す

戦前の喫茶店ブームは昭和10年から12年ごろの事。
東京だけで一万店とか一万五千店とかいう話もありますが。
喫茶店にもいろんな形態があったようで、どこまでを数えるかで数字が変わってくるようです。
純粋にコーヒーや紅茶を楽しむいわゆる純喫茶のほかに、女性が席に着いて接客してくれる店も特殊喫茶や新興喫茶として存在していました。
昭和11年の警視庁の調査によりますと、東京市における喫茶店数は6246軒、うち純喫茶は1156軒だったそうです。

2006年の調査では、東京都の喫茶店数は全国19位で7937軒だそうですから、現在とあまり変わらない、という事になるのでしょうか。

ブラジル珈琲 1935
ブラジル珈琲広告 昭和10年頃
コーヒー豆輸入量戦前のピークは昭和12年、8571トン。

歌の世界では中野忠晴が歌った「小さな喫茶店」が昭和10年。
♪待つは君ひとり、逢えば行く喫茶店(ティールーム)…と藤山一郎が歌った「東京ラプソディ」が昭和11年。

戦争によってコーヒー豆の輸入が不自由になる昭和14年ごろまで、一杯10〜20銭ほどでコーヒーが楽しめた喫茶店は、我が国の大衆社会の中に着実に定着していたようです。

♪一杯のコーヒーから夢の花咲く こともある…と霧島昇が歌った「一杯のコーヒーから」は昭和14年。
戦前の喫茶ブーム名残りの一曲と言えるかもしれません。

大型喫茶店
銀座にあった大型店だそうです。
ボックス席、ロングドレスのウェイトレスの女性がいます。

当時増えて行く喫茶店のなかで、地域や客層によって店の特色を出したり、他店との差別化を図る店も出て来ます。

レコードをかけて音楽を聴かせる、音楽喫茶や名曲喫茶、ジャズ喫茶なんてのもこのころ生まれたのだとか。

お店にはレコードをかけるレコード係の女性をおいている店などもあったのだそうですよ。

音楽喫茶のレコード係

この写真の説明文は「爛熟の1930年代 モガがサービスする音楽喫茶」となっています。

手前の人は何歳位でしょう、若いように見えますが、カッコイイ、チャイニーズ風セーラースタイル?という感じでしょうか、サイドのラインがポイントでしょうね、おそらく赤。
エッジの効いた断髪はモガの心意気か。


レコちゃん

イカしてたのでキャラ化してしまいました。
レコード係のレコちゃん(仮名)
「コーヒーおかわりしてね!」
 
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2012年06月04日

カンカン帽復興への道 4年目

さて、来ましたね、カンカン帽の季節が。

カンカン帽復興を願う、四年目、ということで。
今年はオリンピックイヤーでもありますし、こんな話題。

一昨年、カンカン帽復興記事の中で、1932年ロサンゼルスオリンピックの開会式で日本選手団がカンカン帽を着用していたとご紹介しましたが。

ロサンゼルス五輪01
第十回ロサンゼルス大会

実はその前の、1928年アムステルダム大会でも、日本選手団はカンカン帽を着用しています。

アムステルダム大会 1928
第九回アムステルダム大会

第九回アムステルダム大会
旗手は中沢米太郎選手(棒高跳び、十種競技)

そしてさらにさかのぼる1924年パリ大会においても、

パリ大会 1924
第八回パリ大会

ご覧のように日本選手団はカンカン帽なのです。

すなわち、カンカン帽は実に三大会連続五輪出場という快挙を成し遂げていた、ということですね。

もはや何の異論を挟む余地はない。
カンカン帽は正装です。
もう晩餐会でも園遊会でも、どこへかぶって行っても大丈夫。
呼ばれませんけど。

いよいよついにこの夏、オリンピックの夏、男子カンカン帽の大流行が来るっ!

てことは無いか。


織田幹雄選手 1928
がんばれニッポン!
日本初の金メダルは三段跳びの織田幹雄選手。
1928年アムステルダム大会にて。
係員もカンカン帽だ。

関連記事:
カンカン帽はかえってくるのか
今年もカンカン帽復興を願って
カンカン帽復興はまだか 3年目
カンカン帽復興祈願 5年目
 
タグ:カンカン帽
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2012年05月26日

時々キネマ文字 邦画篇

さて、ネタに困れば映画ポスターとキネマ文字。
画像はクリックで少し拡大表示します。

都会交響楽
都会交響楽 昭和4年 日活

これ、かっこいいデザインですね。
左側に西條八十作詞の主題歌の歌詞が書いてあります。
歌もヒットさせたい、という事でしょうか。

主題歌はビクターから、二村定一と青木晴子版と歌詞が違う藤本(葭町)二三吉版がカップリングになっています、二三吉版は三味線とか入ってちょっと御座敷風です。

同じ年、日活、溝口監督でこの直前に作られた「東京行進曲」もそうですが、小説、映画、レコードとマルチに展開して相乗的に売り上げて行こうというのは、なんだか70〜80年代の角川映画を思い出しますね、というか春樹氏はけして新しい事をしていたわけではなかったんですね。


真珠夫人
真珠夫人 昭和2年 松竹

ジュリアナみたいな扇子を持っているのは、主演の栗島すみ子、当代人気一番蒲田の名花。
内容はお昼のドラマでお馴染みでしょうか。


椿姫
椿姫 昭和2年 松竹

当初は岡田嘉子と竹内良一で撮影が始まりましたが、途中で主役の二人が駆け落ち失踪してしまい、夏川静江、東坊城恭長の二人で完成しました。
東坊城恭長という人は、子爵東坊城家の三男で入江たか子のお兄さんだそうです。

岡田嘉子としては第一回目の駆け落ち、という事ですね。


浄魂 1927
淨魂 昭和2年 市川右太衛門プロ

市川右太衛門独立プロ設立第一作です、なんと二十歳の時ですと。
御存じ「旗本退屈男」は三年後の昭和5年に誕生しています。

我が懐かしの「あやめ池遊園地」に撮影所があったのか。


活動狂時代
活動狂時代 大正14年 マキノキネマ

おなじみチャップリンの映画、ではなくて、チャップリンに似た男が主人公の日本映画です。
主役の柳妻麗三郎という人は、当時チャップリンの物真似を得意とした芸人さんだそうで、あの「できるかな」のノッポさん(高見映)のお父さんだそうです。
もう一人の主役、松尾文人氏はこの時九歳。人気子役だったらしく、このポスターでも柳妻氏より名前が上にありますね。
戦後は東宝特撮映画やウルトラシリーズなどにも登場していたそうですから、きっと見た事があるな。

ちなみにこの年の本物チャップリンの公開作は「黄金狂時代」でした。


稚児の剣法
稚児の剣法 昭和2年 松竹

これは熊本市にあった電気館という映画館のチラシだそうです。
林長二郎、後の長谷川一夫のデビュー作。
新人が大プッシュされてデビューするというのは、現在の芸能界でもよくある事だそうですが、この時も松竹による大宣伝が行なわれたそうです。
このチラシにも師匠鴈治郎のお願いとか、十銭割引券とか付いていますよ。

電気館は現在も「Denkikan」として存在しているそうです。

当ブログと熊本との接点、徒然(とぜん)なか話にもこんな記事がありました。
→電氣館と林芙美子


都会交響楽   二村定一/青木晴子版

 
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2012年05月16日

昭和11年の日食

さて、今月21日に日食が見られるそうです。
ほぼ全国で皆既日食が見られるとか。
東京で金環食が観測できるのは173年ぶりだそうですよ、天保十年、天保の改革、水野忠邦も見たのでしょうか、日食。

昭和前半期でいえば、昭和11年にも日本で皆既日食が見られたそうです。
本日はそんな写真。

日食 1936-1

銀座で日食観測
望遠鏡をのぞく人、後ろは松屋ですね。


日食 1936-2

大阪、岸和田の小学校。


ともに昭和11年6月19日、外国からも観測団がいくつも来日しました。
観測用の小さな色ガラスは5銭〜10銭、とてもよく売れたのだそうですが、今ではこういう色ガラスやスス付きガラスなどで見るのは危険だとされていますよ。


老中樣からのお達し。

水野忠邦


天気が良ければいいですね。
 
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2012年05月09日

尖端女性職業〜漫画篇

最尖端女性風景P1

最尖端女性風景P2

以前「◯◯ガール登場す」という記事で、昭和初期頃に新しく生まれた女性職業を紹介しましたが、今回はその漫画篇。
文章も興味深いので抜き出してみました。


最尖端女性風景01
一、女車掌
職業戦線のトップを切る無数の彼女たち。
彼女たちは巷に突進する。
合言葉(スローガン)はGO! STOP! それからALL、RIGHT!
『ネー、A車庫の連中と来た日にゃ腰ぬけにも程があるワ。婦人部の戦闘的なのに煽動(アオ)られてどうやら動いてはいるんだけどーー』
『フム。ダラ幹の種は尽きねェーーおっとどっこい三ガロンでストップだ!』

最尖端女性風景02
二、ショップガール
きらめく大百貨店の事務(ビジネス)は彼女達のお化粧の時間さえおしむ位、でも今日の人出は、全く‥‥頭がくらくらしてーーと、最小抵抗線の彼女A、B、Cは、トイレットの鏡に向って泣きたくなる。
でもここは私達のオアシス。
口紅のあせたのをつくろう間も、家に待ってる妹とあの人と、ランデヴーの約束のことなど思いは万華鏡のようにーー。

最尖端女性風景03
三、ダンサー
春の街は明るいペーヴメント。
夜風はワルツを偲ばす。
早びけのホール帰り。
電気広告塔は橋と街角に挨拶する。
『マア、珍しいこと。フロリダのN子さんはあんたが来ないんで、当時メランコリアだってーー。
ね、お安くないでしょう。時にホット・レモナードでも飲みましょうよーー』
『ヘエー。そう出られては、おごらざるを得ずです。』

最尖端女性風景04
四、タクシー・ガール
宵の町では彼女を拾う為に紳士が眼を輝かす。
この時代のチャムピオンはあまりたくさんは無いようだ。
ハンドルを握りしめた手は一九三〇年の彼方を行く。
鏡に写ったお客はほろ酔い。
幾組かが彼女を見やりつつ消える。
それ程勇敢な風景だ。
ともすればそれは女を否定していると思わす位にーー。

最尖端女性風景05
五、若きローザ
職業と云うにはあまりに非職業的職業。
コムソモルカなんて、それはロシヤの話でしかない筈だから。
われらの若きローザは今手を真黒にして組合で謄写版を刷ってる。
『アラ。お尻が邪魔ですってば。そんなにおいしい焼芋なら一つ頂戴!分派主義(セクト)は清算されてるんじゃないのーー』

最尖端女性風景06
六、マネキン・ガール
季節のショーウインドゥ・マネキン・ガールは悲しい生ける人形だ。
彼女は今時(タイム)との雄々しい競争者。
誰だって、ヘロデ王でさえ彼女を眺めることしか出来はしない。
薄紅にほのかな頬、黒いまつ毛。
だが青春は彼女にとって何と倦怠(アンニュイ)であるよ!


これを描いた須山計一という人は、漫画家で洋画家で、それぞれの評論家で研究者で、みたいな人です。
漫画評論においては我が国の第一人者として多くの著作があるそうです。

この漫画が描かれた1930年には日本プロレタリア美術同盟書記長。
つまり左翼の人ですね。
この漫画もおそらくプロレタリア系の雑誌等に掲載された物かもしれません。
若きローザとか、コムソモルカとか、きっとそういう読者には理解できたのでしょう。

昭和の初め頃は、いわゆるモボ、モガ、モダニズムやエログロ・ナンセンスなどが多く語られますが、一方でプロレタリア文芸や傾向映画など、社会主義活動も盛んな時代でした。

西條八十は「東京行進曲」の歌詞の中に「長い髪してマルクスボーイ、今日も抱える赤い恋〜」という一節を入れました(後に変更)、いつの時代も風俗としての思想主義というものがあるのかもしれません。

マルクスボーイとエンゲルスガール
これは流行としてのマルクスボーイを風刺した漫画。
「銀座はうつる・マルクスボーイとエンゲルスガール」下川凹天(しもかわへこてん)昭和4年

もちろん取締りも厳しく、須山氏も治安維持法で懲役を受けた経験者だそうです。
大変な時代ですね。


映画「東京行進曲」劇団「カジノ・フォーリー」小説「蟹工船」はそれぞれ昭和4年(1929)という同じ年に生まれています。
この年代のカオス感に興味は尽きませんね。


日本漫画100年―西洋ポンチからSFまで
日本漫画100年―西洋ポンチからSFまで (1968年) 須山計一
 
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2012年04月22日

デパート開店す

さて、本日はまたポスターで。

大正末から昭和の初めにかけての百貨店のポスターです。


松坂屋1922
松坂屋いとう呉服店
大正11年、上野店の売り出し。

三越本店西館修築落成 1925
三越呉服店
大正14年、本店修築・新宿分店落成記念。

丸菱1925
丸菱百貨店
大正14年、東京丸の内ビル内に開店。
初めて月賦販売を行なったデパートだそうです。

白木屋
白木屋
和洋折衷建築のデパートとしては明治36年開店の白木屋が日本最初なのだそうです。
震災後は昭和6年に日本橋本店全館落成。
火災は翌7年の暮れです。

伊勢丹開店 1933
伊勢丹
昭和8年、新宿店開店。

東横1934
渋谷東横百貨店
昭和9年、開店記念。
現在の東急百貨店東横店ですね。

高島屋
高島屋 
東京店は昭和8年開店。
この艶かしい絵柄は北野恒富作、大阪店春季大展覧会用、昭和4年。

大丸 サンマーファッション
大丸呉服店
このポスターの年代不明。
ちなみに社名から「呉服店」の文字が取れるのは昭和3年だそうです。


昭和4年に西條八十が作詞しました「東京行進曲」の中でも、

「かわる新宿 あの武蔵野の
月もテパートの 屋根に出る」

なんて歌われております。

そのころのデパートは、まさに新しい時代の象徴だったのかもしれません。

一方でこんな漫画も

「目覚しい百貨店の進出」池田永一治

昭和5年、池田栄一治(いけだえいじ)という人が描いたものです。

デパートの進出で、付近の小売店は大変、いろんな意味で日当り悪し、という内容ですね。

このへんはどうも現在とあまり変わらないようです。
 
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2012年04月07日

昭和7年のビルの谷間

アメリカでエンパイア・ステート・ビルディングが建てられたのが1931年、昭和6年です。
我が国にはまだまだそんな高い建物はなかったのですが、それでも都市部には次々と重厚な造りのビルが建てられ、都会的な風景を見せていたようですね。

そんな昭和7年のアサヒグラフから「都会の谷底」という記事です。

都会の谷底
整理ヶ島
流れの中に飛び出た交通整理の島だ、谷合でもここは先ず安全地帯である、島の主が人も車もほどよく流してくれる。(日本橋室町にて)

都会の谷底02
谷底からのびる
平行線を描いてくぐり抜けている煙突、ビル街では珍しい煙突のある風景だ、丁度谷底から不遠慮にのびた大木に似ている。(丸の内ビル街)

都会の谷底04
崖下風景
ビルの裏口は恰も崖下の舟つき場の感じだ、車のつながり今にも乗客が崖口から下りて来そうだ。(日本橋室町裏通り)

都会の谷底03
底に働く男
ビルの人達の足元ばかりを目ざとく気にかける靴屋、これが本当に底で底らしい仕事をする男だろう(丸の内にて)

都会の谷底05クリックで拡大
人間の流れ
魚でもない、木の葉でもない、谷底に流れるのは人間と車だけだ、そして響いてくるものは水音に似つかぬ都会の騒音だけである。(銀座交差点服部時計店屋上から)

都会の谷底06

これは別の記事にあった写真、最初の写真の右側にあった建物ですね。
日本橋の三井本館。

写真の撮り方もあるのでしょうが、現在の雑然としたビル街の風景とはちがう雰囲気がありますね。
なんだか異国のようにも見えます。
裏道などはちょいと迷い込んでみたくなったりして。


三井本館

現在の三井本館

アサヒグラフ 昭和7年12月14日「都会の谷底」
  同    昭和6年11月4日「窪川いね子氏と東京を歩く」より
 
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2012年03月21日

昭和6年のラヂオ

さて、これは昭和6年に発売されました松下電器のラジオ第一号、3球1号型受信機(Rー31)だそうです。

3球1号型受信機(Rー31)

当時の東京中央放送局(現NHK)によるラジオセットコンクールで一等に当選したもので「当選号」なんて名前で売り出されたんだとか、なかなかカッコイイですね。

で、以前に「ナショ文字」の記事を作った時にいろいろ検索していて見つけたんですが、パナソニックのサイトに「キッズスクール」というコーナーがありまして、そこでナショナル家電のペーパークラフトの型紙がダウンロードできるんです、懐かしい白黒テレビや炊飯器などといっしょに、この第一号ラジオもありました。

Kids School ペーパークラフト教室
「キッズスクール・ごとうけい先生のペーパークラフト教室」


そして作ってみました「當選号」。

当選号ペーパークラフト前

どうでしょうか、真面目に取り組んだんですが。
「キッズスクール・ペーパークラフト教室」のわりには結構細かい作業でした、大丈夫でしょうかキッズ達。


当選号ペーパークラフト裏

私か不器用なだけなのか?
まずいな、ナカコズクラフトなのに。
カメラしょぼいしっ。


ところで、昭和6年のラジオとは、どんな番組を放送していたのでしょうか。
ちょうどこの年の大晦日のラジオ欄の画像がありましたので載せておきますよ。

1931年12月31日のラジオ
クリックで拡大

七時半からは「忘年演芸会」トリは二村定一の「ジャズ小唄」だって、何を歌ったんでしょうね。
大晦日と言えば「紅白歌合戦」ですが、それは戦後の話、でも除夜の鐘の中継はやってますね、生中継って事でしょうね、全国に生で善光寺の鐘の音を届けたという事ですよね、なかなかやりますね昭和6年。

:追記
二村定一が「忘年演芸会」で歌ったのは、
「巴里見物」「日本橋から」「モンパパ」
の3曲だそうです。
もうりさんからコメントで情報をいただきました(あの毛利眞人!)
詳細はコメント欄をご覧下さい。


じゃ広告で〆。

ナショナルラジオ R-31
「週刊朝日」昭和7年2月21日号より

というような事でした。
 
posted by nakaco at 12:38| Comment(5) | TrackBack(0) | 昭和前半期

2012年03月08日

昭和5年のパレード

東日本大震災から一年が経とうとしております。
大変な災害の復興には、それだけ多くの時間が必要ですね。
当ブログに設置した義援金まとめのバナーも今しばらく置いたままにしておこうと思いますので、よろしくお願いします。

さて、大正12年、やはり未曾有の大災害をもたらした関東大震災がありました。
その七年後の昭和5年、「帝都復興祭」というものが行なわれたそうです。
目的は、天皇陛下に対する復興実情の奉告と、さらには内外からの援助に対する報答だということです。

陛下の御巡幸に合わせた奉祝行列や提灯行列、花電車や音楽自動車なんていうものもあって、これらの催しに当時の東京市民は相当熱狂したようで、絵葉書なんかもたくさん残っています。
(今回の画像はすべてクリックで拡大できます)

宮城前通御の鹵簿と市民の雑踏
宮城前通御の鹵簿と市民の雑踏

昭和通に於ける奉祝花電車の美観
昭和通に於ける奉祝花電車の美観

奉祝 夜の音楽花自動車
奉祝 夜の音楽花自動車

〜絵葉書はお馴染みのポケットブックスさんのサンプルより〜

そして、そんな催しの一つに株式会社正路喜社(しょうじきしゃ)という広告会社主催による「広告行列」というパレードがありました。

広告祭行列 日本橋を通過
広告祭行列 日本橋を通過

これは各企業が独自の仮装車を作り、それを連ねて音楽とともに移動するという、いわば現在における企業フロートパレードの元祖みたいな事でしょうか。

参加団体163団体、仮装車134台、参加人数989名という記録が残っています。

広告祭プログラム
広告祭プログラム

スタートの芝公園から終着点の上野公園まで約7kmほど、午後2時スタートで終わったのが7時半頃だそうです。
到着地点の上野公園には人が集まりすぎて怪我人が出たなんて新聞記事もあったようですよ。

さて、実はここまでは前置き。
当ブログはグラフィック関連ですからね(そうだったんですよ)

この広告行列に合わせて正路喜社が行なったのが、新聞紙上における「紙面広告行列」です。

これが今回の趣旨
祝賀行列 広告祭
都新聞 昭和5年3月24日


ご覧のように新聞の全面を使いまして、各社が共通フォーマットの上に仮装車の広告を作り、行列よろしく並べる、紙面広告パレードというわけです、人気投票なんかもやっています。
これは実際の行列予定日の前日の新聞に掲載された物で、いわゆるイベントと媒体の連動企画ということですね。
やりますね正路喜社。

上の画像は例の東京大学アーカイブスにあったものですが、別の版もありましたので載せておきましょう。
映画の広告などによると、以下は翌6年の4月ごろのものかもしれません。

広告祭s6_01

広告祭s6_02

広告祭s6_03

広告祭s6_04

実際にもこんな感じの仮装車が行進したんでしょうかね、だとしたら随分楽しそうですけども。


復興広告祭についてはこちらの論文を参考にさせて戴きました。


さて、災害からの復興といっても、なにをもって「復興」といえるのかむずかしい所ですが、いずれにせよ、被災した人達が再び心の平安を持てる日が一日も早く来る事を願っております。
 
posted by nakaco at 15:47| Comment(3) | TrackBack(0) | 昭和前半期