2014年02月12日

冬季五輪 1928,1936

冬季オリンピック開催中。

がんばれニッポン!ということですね。

さて、我が国の冬季オリンピック史は、1928年、スイスのサンモリッツ大会から始まります。

サンモリッツ大会 1928 ポスター

昭和三年の事です。
冬季オリンピックとしては第2回大会、第2回から出ていたんですね日本。
参加25ヶ国中ヨーロッパ以外では、カナダ、アメリカ、メキシコ、アルゼンチン、日本、ということになっています。

サンモリッツ大会 1928

開会式、選手宣誓をしているのはハンス・アイデンベンツ選手。
日章旗も見えますね、旗手は高橋昴選手。

サンモリッツ大会 日本選手団

日本選手団、総勢7名
左から、永田実 竹節作太 麻生武治 矢沢武雄 伴素彦 高橋昴の各選手、そして役員の廣田戸七郎氏です。
ジャンプの伴素彦選手は北海道大学、それ以外は早稲田大学スキー部だそうです。
留学中の麻生武治氏以外は、シベリア鉄道での欧州入りでした、大変でしたね。

成績は思わしくなかったようで、一番の好成績がクロスカントリー50Kmでの永田実選手の24位というものでした。

麻生武治選手いわく「今後に備えての見学が主目的」だそうで、しかしこれはけして負け惜しみだったわけではなく、彼等が持ち帰った本場の競技体験は、その後の我が国のスキー技術の向上に大いに貢献した、という事です。

麻生氏は4年後の第3回レークプラシッド大会の日本選手団監督として再び五輪に挑む事になります。


ところで、今回もフィギュアスケートにメダルの期待が集まりますが。

フィギュアスケート競技で日本人が初めてオリンピックに挑戦したのは、1936年(昭和11)ドイツのガルミッシュ・パルテンキルヒェンで行われた第4回大会でした。

稲田悦子選手 1936

あら可愛らしい、この方が我が国初の冬季五輪女子選手、稲田悦子嬢、当時12歳だそうで、今も残る五輪最年少記録です。

ガルミッシュ・パルテンキルヒェン大会 フィギュアスケート

右から2番目、ひときわ小さな稲田選手、日の丸付いてます。

稲田悦子選手衣装

この衣装は、国立競技場スポーツ博物館に展示されていますよ。
写真:JOCホームページ

結果は26人中10位、がんばりました。

この大会で三連覇を果たした当時の女王ソニア・へニー(ノルウェー)をして「近い将来必ず稲田の時代が来る」と言わしめたとか。

当時のオリンピックは、夏季大会と冬季大会は同じ国で行われる慣習があったそうで、東京オリンピックの開催が予定されていた1940年には、札幌冬季大会も予定されていました。
稲田選手にメダルの期待が寄せられましたが、日本でのオリンピックは夏冬ともに開催される事はありませんでした。

札幌大会 1940

日本が冬季五輪に復帰するのは1952年のオスロ大会で、稲田さんは28歳、現役を引退した年でした。

その後は指導者として、若い選手を育てていたそうです。

「五輪は参加することに意義があるなんてうそ。本番のたった一回のチャンスに成功し、一位にならなくちゃ」

なんて言葉を残したそうです。
カッコイイ。

稲田悦子選手とカール・シェーファー

ガルミッシュ・パルテンキルヒェン大会にて
男子金メダリスト、カール・シェーファー(オーストリア)と

がんばれニッポン!
 
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2014年02月03日

図案文字の描き方 - 近代デジタルライブラリーで

さて、以前このブログで図案文字に関する記事をいくつか載せました、
「モダン装飾図案文字」
「モダン装飾図案文字を書いてみる」
大正末期から昭和の前半期において流行しました装飾的な文字が、見ていて面白い、自分でも書けますよ、という事だったんですが、
そんな図案文字がたくさん載っている本、

「新しき図案文字の描き方 : 初心者の為に」
洋画研究会 編 国民書院 昭和15年

が、無料で読めますよ、というご紹介。

例の国立国会図書館の近代デジタルライブラリーに入っていました。
例のというのは、あの「エロエロ草紙」でお馴染みのってことで。

新しき図案文字の描き方 : 初心者の為に - 近代デジタルライブラリー

新しき図案文字の描き方より

新しき図案文字の描き方より

新しき図案文字の描き方より

「新しき図案文字の描き方」といっても、詳しい描き方を教えてくれているわけではなく、たくさんのサンプルを集めて実例として見せてくれる本になっています。
ひらがな、カタカナ、数字、アルファベット、豊富な具体例で、全188ページなり。

昔の文字がお好きな方は、眺めているだけでも楽しいですよ。

関連記事:
モダン装飾図案文字
モダン装飾図案文字を書いてみる
資料本
「エロエロ草紙」を読んでみる
 
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2014年01月25日

私家版「東京行進曲」再UP

本日はお知らせ。

以前からYoutubeに二分割でアップロードしておりました、映画「東京行進曲」(1929) 日仏合体版を、時間制限解除により一本にまとめて再アップロードしました。
Youtubeの時間制限はいつのまにか電話だけで簡単に解除できるようになっていたのだった。

新たに日本版にあった冒頭の歌詞字幕も入れておきました。

東京行進曲 歌詞字幕

音声は今回も入っていません。


東京行進曲パンフレット
画像クリックでちょっと拡大

当時のパンフレットを見ると、いろんなシーンがありますが、ほとんど残っていませんね。


アサヒグラフ記事 昭和四年
アサヒグラフ 昭和4年5月1日 新作映画紹介の記事。
日活「東京行進曲」
来るべき日活の特作。
原作菊池寛氏、監督溝口健二氏、主演者夏川静江(右)瀧花久子(左)入江たか子、島耕二、小杉勇、神田俊二の面々。
待たれる映画ではある。


私家版作成の詳しいところは前回の記事で。
東京行進曲(私家版)を作る

Youtubeへのリンク
YouTubeへ
映画「東京行進曲」(1929) 日仏合体版
 
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2014年01月15日

戦前ポスター 町田隆要

ネタがないときはポスター。
という事になっております。

今回は、大正から昭和初期に活躍しました町田隆要(りゅうよう)作品。


帝國ランプ 1926
帝國電気 1926年


ダンロップタイヤ 1926
ダンロップ護謨 1926年


大日本製糖 1930
大日本製糖 1930年

以前、百貨店開店の記事でご紹介した松坂屋のポスターも町田隆要の手によるものです。

松坂屋1922
松坂屋いとう呉服店 1922年

確かな画力とレイアウトもこなすデザイン能力もあり、大正中期以降多くの名作ポスターを残しました、ということです。
 
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2013年12月27日

どうぞ良いお年を

さて、本年最後の更新です。
今年はいろんな事情で更新数が減りましたが、今後もまあこんな感じでしょうか。
つまり、なるようになれ、ですね。

昭和6年千日前

写真は昭和六年のお正月、大阪千日前の賑わいです。
ハロルド・ロイド氏の「足が第一」が上映されているのは「敷島倶楽部」。
我々にとっては「東宝敷島」、現在は「TOHOシネマズなんば」となっています。


昭和10年浅草六区

昭和十年 浅草六区興行街の新年。
ロッパ率いる「笑の王国」は常盤座にて公演中。

来年のお正月も景気上昇で繁華街は賑わうのでしょうか。


平成26年度略暦
略暦平成二十六年版 クリックで拡大

来年もよろしくお願いします。
 
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2013年06月19日

カンカン帽復興祈願 5年目

さて、初夏恒例のカンカン帽特集。
我が国に再びカンカン帽が溢れる時が来てほしいという趣旨で、歴史の中のカンカン帽写真などを紹介しています。
(画像はクリックで拡大)

カンカン帽画像5-1

大正10年(1921)7月
川崎・三菱両造船所で起こった労働争議におけるデモの様子です。
約4万人の労働者が神戸の街を埋めたそうですが、このカンカン率は凄いですね。


カンカン帽画像5-2

大正14年(1925)
日本初の地下鉄「東京地下鉄道」上野ー浅草間起工式の記念写真です。
カンカン率50パーセント。


カンカン帽画像5-3

昭和6年夏
街頭アイスコーヒー売り登場。
「モダンコーヒー」一杯三銭也、売る方も買う方もカンカン帽。


カンカン帽画像5-4

昭和14年(1939)9月3日
パナマ、カンカン、中折れの三氏が読んでるのは、ドイツに対する英仏宣戦布告の記事、第二次世界大戦勃発の日。


カンカン帽画像5-5

昭和10年(1935)8月25日
長崎五島列島福江島、堂崎天主堂近くの木立に掛けられた、男性キリスト教信者達のカンカン帽。
ミサの間はここに帽子を掛けていたのだそうです。


最後は海外の写真サイトShorpyより

1924年8月29日、ワシントン、野球の実況ボードに集まる群衆、らしいんですけど。
驚異のカンカン率を高画質でご覧下さい。

Shorpy画像へ

画像クリックでShorpyのフルサイズ画像へ。


流行れ!カンカン帽!
というわけで、また来年。

関連記事:
カンカン帽はかえってくるのか
今年もカンカン帽復興を願って
カンカン帽復興はまだか 3年目
カンカン帽復興への道 4年目
 
タグ:カンカン帽
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2013年05月26日

続・昭和11年の扇風機

さて、前回の芝浦電気扇からのつながりで。

以前、昭和11年の扇風機という記事で原節子さんのポスターとスチール写真を紹介しましたが、その際の別カットがありましたので載せてみましょう。


芝浦電気扇と原節子01

芝浦電気扇と原節子02

芝浦電気扇と原節子03

芝浦電気扇と原節子04

芝浦電気扇と原節子05

芝浦電気扇と原節子06

芝浦電気扇と原節子 1936

撮影は名取洋之助、昭和11年の3月頃で、原さんは16歳ということです。


さらにその前年、昭和10年の水着写真。

原節子 1935

この写真の所有は資生堂らしいです。
原さんデビューの年、すでに資生堂のキャンペーンガールだったのでしょうか。

それにしてもこの年代の水着写真のなかでも破格にモダンで華やかな気がします。


関連記事:
昭和11年の扇風機
 
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2013年05月08日

戦前家電

前々回のブログはテレビジョン研究の話題でした、
テレビと言えば家電の華、という時代は終わったのだそうですが、
まだまだ頑張れ日本メーカー、ということで、
今回は戦前家電の図版など。

VC-A型真空掃除機
芝浦製作所製電気掃除機のカタログ 昭和6年(1931)

腰を屈めてのつらい御掃除からの開放、みたいな事ですかね。
なんだかハイカラなデザインだと思ったら、米国GE社(ゼネラルコンプレスト・エア&バキューム社)製を元にした国産第一号機だそうです。

VC-A型真空掃除機
日本初のアップライト型真空掃除機VC-A型

ソーラーというのは当時芝浦製の掃除機や洗濯機に付けられていたブランド名のようです。

電気洗濯機Solar
国産第一号の撹拌式電氣洗濯機ソーラー(Solar)

電気洗濯機



こちらは松下電器、昭和6年の電気こたつのポスター、ナショ文字以前ですね。

ナショナルこたつ 1928
松下電器製作所 電気こたつポスター 昭和6年(1928)

二重安全装置とは、サーモスタットと温度ヒューズを組み込んだもの。
中尾哲二郎氏開発の新型サーモスタットは画期的な技術だったそうです。
電源は天井の電灯から、ナショナルだけに二股ソケット、でしょうか。

芝浦掃除機の絵では壁のコンセントから取っていますが、一般住宅に壁コンセントが付けられるのは何年ぐらいからなんでしょうかね。
疑問を投げかけるだけで自分では調べないわけですが。


お馴染み芝浦電気扇、多田北烏作のポスター

芝浦電気扇

芝浦電気扇

扇風機とテニス、扇風機と踊り子。
時代の尖端だわ、ってところ。

掃除機のバッグにもあったSEWマークは扇風機のカバーでもお馴染み。

Shibaura Enginnering Works

芝浦製作所(Shibaura Enginnering Works)の略だそうです。

戦前だって家電はあった、といいう事で戦前家電第一回でした。
第二回は未定。
 
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2013年04月04日

昭和16年のテレビジョン

さて、しりとりブログ。
前回の広瀬正全集より、長編「エロス」の中の一節。

昭和15年、日本放送協会技術研究所に勤めている片桐慎一と中学生広瀬正少年との会話です。

ほう、そうかい、ぼくも工科だぜ。帝大の電気工学科だ」
「えっ、そうですか」正はにわかに居ずまいを正し、二、三度まばたきをすると、おそるおそる、「弱電ですか?」
ときいた。
「うん、いまは放送協会技術研究所に勤めている」
「それじゃ、テレビジョンなんかも?」
「うん。きみテレビジョン、見たことあるかい?」
「ええ、この間、高島屋で見ました」
「そうかい、ぼくはあすこにいたんだぜ」

そんな高島屋でのテレビジョン実演のポスターがありました。

テレビジョン完成発表会

小説と日付が違いますが、何度か高島屋や三越などで行なわれていたそうです。

当時日本放送協会(NHK)技術研究所でテレビジョン開発を行なっていたのは、世界で初めてブラウン管による受像に成功した「イロハのイの字」の高柳健次郎教授。
片桐慎一はその下で働く若き研究員というところですね。

ではそのNHK技術研究所ではどんな事をしていたのか。
昭和16年のアサヒグラフにこんな記事がありました。

テレビ実用化近し
「わがテレビイ実用化近し」


NHK技術研究所01

スタヂオにおける試験放送である。
目の眩むようなライトを幾つも使い、ピアノ独奏を、アップで、或いはロングで、そのリズムに応じてカメラを移動して放送している。



NHK技術研究所02

スタヂオでテレビー・カメラを通った光電流は、ここで一定のものに調節され、次の装置へ送られる。
コントロールする人は、レシーバーを耳に当て、前方の窓に映し出される像を鮮明に、そして歪まないように調節するのである。


NHK技術研究所03

テレビジョンはズタヂオに限らず、映画を送ることもあれば野外で移動式に送られることもある。
この三つの装置はフィルム、野外、スタヂオと各々変わった放送を調節する装置で、この三つのうちどれか一つを選択し或は混合し、次の信号混合装置へ送られるのである。



NHK技術研究所04

信号混合装置に送りこまれた像は、ここで鮮鋭度、歪みなどを調整されて送信機へと送られるのである。
スクリーンには、スタヂオでのピアノ独奏が映し出されている。


NHK技術研究所05

信号混合装置から流れる像の電流は、この送信機を経て超短波となりアンテナから放送される。
これとは別の送信機から別に音の電波が放送される。


NHK技術研究所06

いま作られている試作の受信機である。
電気蓄音機の蓋の部分に鏡がつけられ、それに像が反射して見え、音声は下部のダイナミック・スピーカーから流れるという機構である。



NHK技術研究所07

テレビジョン移動放送用自動車の内部を示す。
山野を自由に走りながら、移動放送が出来るのである。
この自動車が実際に活躍する日も、遠い将来ではあるまい。



NHKでのテレビジョン開発は1940年の東京オリンピックをテレビ放送するという計画をもとに進められましたが、時局により東京オリンピックは幻に終わりました。
その後も研究は続けられますが、このアサヒグラフの記事から四ヶ月後、昭和16年6月になって、いよいよ戦線激化によりテレビジョン開発は中断させられ、実用化近し、というわけにはいきませんでした。
その後研究者たちはレーダーや超短波などの兵器研究に動員されていったそうです。

再びテレビジョン開発が解禁されるのは昭和21年、本放送が始まるのは昭和28年2月でした。

小説の中の片桐慎一がどうなったのかは、

それは読んでのお楽しみで。

エロス 広瀬正・小説全集・3 (広瀬正・小説全集) (集英社文庫)
エロス 広瀬正・小説全集・3 (広瀬正・小説全集) (集英社文庫)

 
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2013年03月06日

「花詩集」

さて、前回の記事を受けて今回の記事を作る、しりとりブログ展開中。
そんな今回の画像は中原淳一夫人となる葦原邦子さん出演の舞台写真です。

花詩集1934クリックで拡大

昭和九年一月、東京宝塚劇場こけら落しとなる大レビュウ「花詩集」のグランドフィナーレの様子です。

最前列の並びは向って左から橘薫、三浦時子、久美京子、藤花ひさみ、小夜福子、草笛美子、葦原邦子、大空ひろみ、雲野かよ子、という方々になっているそうです。

この「花詩集」というレビュウはこの前年、昭和八年の八月に兵庫の宝塚大劇場において初演されました。

花詩集

このポスターは九月花組公演のもの。
「好評に付き全配役を一変し続演」とあります。

その後十月も星組によって続演された「花詩集」は三ヶ月連続公演というヒットレビューとなりました。

そして勇躍帝都進出の第一回演目となった、という事ですかね。

東京宝塚劇場

絵葉書「東京宝塚劇場」
アンティーク絵葉書「ポケットブックス」サンプルから

 
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2013年02月22日

少女の友

本日の画像は、前回記事をうけまして、中原淳一作、雑誌「少女の友」昭和10年1月号表紙の原画です。

少女の友 昭和10年1月 クリックで拡大

前回紹介した三越の展覧会のポスターに使われていた絵は戦後の「それいゆ・ひまわり」期の物でしたが、戦前の中原氏といえば「少女の友」という事になります。

中原淳一

中原氏が表紙を担当するようになったのは昭和8年から、たちまち当時の若い女性達から絶大な支持を得ました。
それから昭和15年までの8年間、中原氏は「少女の友」の顔となります。

中原淳一

15年に誌面から中原作品が消えたのは、時局にそぐわないという軍部による圧力があったからだそうです。


そんな中原氏自身はどんな感じの人物だったかというと。

中原淳一 葦原邦子

これは夫人である葦原邦子さんとのツーショット。

なんだか見た目もソフトで洒落た感じの男性ですね。
奥さんが宝塚スターとか、作品イメージをくずしませんね中原先生は。


中原淳一と「少女の友」〜中原淳一・若き日の名作選 (実用百科)
中原淳一と「少女の友」〜中原淳一・若き日の名作選 (実用百科)

 
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2013年02月10日

三越新館落成 1914年10月

本日の画像は大正三年(1914)十月、三越東京日本橋新館落成記念ポスターです。

三越呉服店 1914クリックで拡大

当時三越呉服店図案主任であった杉浦非水の作。
この時完成した建物は、その後の震災や戦災にも焼け残り、現在も三越本店の一部になっているそうです。
お馴染みのライオン像もこの時以来の物だとか。

三越ライオン像


現在新館7階ギャラリーで中原淳一展が行なわれています。

中原淳一展
生誕100周年記念 中原淳一展
2月6日から18日まで。

 
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2012年12月24日

東京行進曲(私家版)を作る

さて「東京行進曲」といえば、われら戦前モダン愛好家にとっては避けて通れぬ昭和4年度の大流行作。
文豪菊池寛による小説、それを原作とした映画、その主題歌である流行歌と、元祖メディアミックス展開でそれぞれが大ヒット作となった事で知られています。

♪昔恋しい銀座の柳〜や、♪いっそ小田急で逃げましょか〜など、おなじみの歌詞の流行歌は聴いた事があるけど、小説や映画はどんな話?という感じですね。
映画は日活製作、世界の溝口健二33歳の監督作です。
本編102分といわれていますが、残っているフィルムは20数分程度となっています。
現在はその残されたフィルムを再編集した短縮版を見ることが出来ます。

DIGITAL MEMEのTalking Silents 1「瀧の白糸」の同時収録版。
瀧の白糸/東京行進曲

そしてフランスの映画雑誌「Cinema 05」の付録としてDVD化されたシネマティーク・フランセーズ修復版というのがあります。
Cinema 05

見くらべてみると、フランス版の方がとても綺麗にリマスターされていますし、シーンも少し多いです。

印象的な鹿角シルエットのカットや、
東京行進曲より

結婚式のシーンも日本版にはありませんでした。
東京行進曲より

一方フランス版には冒頭のタイトルや、
東京行進曲より

主題歌の歌詞字幕がありません。
東京行進曲より

そしてなによりフランス版には、挿入される台詞カットもスーパーされる字幕にも一切日本語がないという事です。

せっかく残されたフィルムですから、全部みたい、日本語で理解したいしやっぱりキレイな方がいい。

という事で、両方のいいところを合わせて一本にしてはどうだろうか、と思って作ってみたのが今回の「東京行進曲(私家版)」というわけです。

1929年公開のこの作品は、すでに公開後83年が経過しています。
著作権としては権利失効済みという事になると思いますが、とはいえ、過去の作品に勝手に手を加えるのははばかられる、たとえ断片による再編集版であったとしても、という訳で今回行なったのは、以下の様な事です。

まず画質がきれいでシーンの多いフランス版をベースにして、そこに入っているフランス語の字幕カットを外し、日本語版に入っている字幕カットを読みやすく作り直して日本語版の字幕が入っていた場所に挿入する。
字幕は「しねきゃぷしょんフォント」を使ったので旧漢字はほとんど新漢字になっていますが、仮名遣いは旧のままにしました。
一部新たにルビを振りました。これは字幕を読む速さをあるていど一定にしたかったからです。
フランス版にしかないシーンの字幕はフランス語を参考にしました。
一部日本語版にはない説明的な字幕が入っていますが、これは状況をわかりやすくするためで、できるだけ親切になりすぎないように心がけました。
フランス版になくて日本版にある短いカットを入っているべき場所に挿入しました。結果いくつか画質の変わる部分がありますが、現存するフィルムを補い合って無駄なく見ようということです。

ということで、これはあくまで自分が観るための私家版ですが、見てみたいという方もいるかもしれないと思い、アップロードしてみました。
何か問題があったらすぐ取り下げますのであしからず。

時間制限の関係で二分割になっています。
それから日本語版冒頭に入っていた流行歌歌詞字幕の部分を外しました。
これもアップロード時間の関係で、時間制限が解除されたらまた考えたいと思います。


時間制限が解除できたので歌詞字幕入りで一本化し、再UPしました。2014.01.25

YouTubeへのリンク
YouTubeへ
映画「東京行進曲」(1929) 日仏合体版
 

 
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2012年12月13日

昭和3年の総選挙

歳末でいそがしいというのに選挙だそうですよ。
まあしょうがないんですけど。

今回は第46回だそうですが、さかのぼって昭和3年に行なわれた第16回衆議院議員選挙は第一回普通選挙、通称「普選」と呼ばれています。

この時から納税額にかかわらず、25歳以上の男性全てに選挙権が与えられました。
これによって有権者の数は307万人から1240万人と4倍に増えたそうです。
しかしまだ女性が入っていないので人口比は20.1%でした。

さて、このとき朝日新聞社が普通選挙を記念して、選挙ポスター図案を一般公募したそうです、応募は全国から5000件もあったそうで、それだけ注目されていたのかもしれません。

今回はそんな応募作から何点か見てみましょう。


第一回普通選挙公募ポスター
清イ一票 明ルイ日本

第一回普通選挙公募ポスター
選ぶ人正しければ 選ばれる人正し

第一回普通選挙公募ポスター
正シキ一票 正シキ政治

第一回普通選挙公募ポスター
国政は舟の如く 一票は櫂の如し

昭和3年 普選ポスター05
正しき政治は 清き一票より

一等入選作
昭和3年 普選ポスター06
正しき一票 正しき政治


これは内務省が全国に20万枚配布したという広報ポスター
昭和3年 普選ポスター07
投票スレバ明クナリ 棄権スレバ暗クナル


昭和3年 普選ポスター09

昭和3年の雪だるま、ではなくて、板塀に貼られている候補者達のポスター、当時はこんなふうに自由に貼られていたのでしょうか。


昭和3年 普選ポスター08

投票所には長蛇の列(東京市芝区桜川小学校)


この時の投票率は80.36%だったそうです。
戦前としてはけして高い数字ではないのですが、でも今よりはずっと高いですね。

世界的に見れば、自由に立候補したり、自由に投票したり、そんな権利を国民が持っている国に住むことはありがたい事かもしれません。
そんな一票を大切に思って、今回もぜひ投票に行って下さいね。
 
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2012年11月22日

「隣の八重ちゃん」を見たりして

隣りの八重ちゃん 1934クリックで拡大

昭和9年ですね。
このポスターは河野鷹思(こうのたかし)の手によるもの。
河野氏は日本のグラフィックデザインの草分けの一人、このころは松竹の宣伝部にいて、小津の「淑女と髭」のポスターとかお馴染みです。

淑女と髭 1931

現在のDVDのパッケージはこんな感じで、主人公の八重ちゃんの逢初夢子さん(右)とその友人役の高杉早苗さんです。

隣の八重ちゃん DVD

高杉さんはこれがデビュー作の新人、わずかな出番ながら大変評判になり、ここからアイドルスターになって行きます。
ポスターの高杉さんの所に書いてある「ラッキー7の一」というのは、同時期の新人女優を7人まとめて売り出したユニット名がラッキーセブンで、その中の一人ということですね。
この頃からやってたんですねユニット売り出し。
ちなみにラッキーセブンのメンバーは、御影公子、忍節子、久原良子、小池政江、水島光代、黒田記代、高杉早苗、ということだそうで、ユニットが全員売れるわけではないのは今も昔も変わらないようで。

昭和11年のアサヒグラフの記事

高杉早苗 1936-1クリックで拡大
高杉早苗時代?
全く以て当時の高杉早苗の人気の程はスサマじいものがある。
流石の田中絹代が「男性対女性」でシャッポを抜いた以上、最早や「時代の娘」をスクリーンの上に再生し得る女優は高杉早苗をおいてはほとんど絶無となって了った!
左の写真は或いは澄まし、或いは哄笑し、或いは悶える最近の彼女。
なんだか表情の作り方も現代的(いつの?)ですね。

さてそんな「隣りの八重ちゃん」が、現在Youtubeで全編見ることが出来ているようです。

島津保次郎 - 隣りの八重ちゃん/Yasujiro Shimazu - Our Neighbor, Miss Yae(1934)
http://youtu.be/6DabBGxTiQc

昭和9年はトーキーとサイレントが混在していた時期ですが、この作品はいい感じで演者の自然なやり取りをトーキーが伝えてくれている気がします。
(さすがに岡田嘉子さんはちょっとお芝居っぽい、でも失踪しちゃうのはリアルか)

高杉さんはワンシーン、当時16歳で女学生役がピッタリ、なるほど可愛いですよ。
でもこの後二十歳で結婚して引退してしまうんですね、相手は市川段四郎、そしてスーパー歌舞伎の三世猿之助を生むことになります。

高杉早苗 11936-2
焼き芋を食べる高杉さん(昭和十年)
 
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2012年11月05日

ポスター「御料 御園白粉」

さて、ネタが無いときはポスターで逃げる。

恒例ですね。

本日は私のお気に入りの癒されポスター「御園白粉(みそのおしろい)」で。

御料 御園白粉
多田北烏 作 大正期

これは娘さんがすごく可愛らしいですね。
左手の指の部分だけで支えている所が萌えポイント。

「御料」というのは皇室御用達という事で、御園白粉は当時白粉のトップブランドだったそうですよ。

左下に入っている文字は社名の「本舗伊東胡蝶園」
明治37年創業で、後に「パピリオ化粧品」となります。
胡蝶とはアゲハ蝶のこと、アゲハの学名がパピリオ、という風にその名が継承されて行きました。
 
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2012年10月29日

花椿アーカイブ

資生堂 花椿 1937

これは昭和12年に発行された資生堂の機関誌「花椿」創刊号の表紙です。
「花椿」は現在も発行が続けられていますが、それ以前にも昭和8年創刊の「資生堂グラフ」や、さらに遡って大正13年創刊の「資生堂月報」というような「花椿」の前身となる冊子があったそうです。
それぞれの時代の顧客にその時々の情報をつたえてきた、という事でしょうか。
さすが、歴史ある企業資生堂。
て褒めても何ももらえないんですけど。

でも戦前の資生堂機関誌なんてどんな内容なんでしょうか、昭和初期好きとしてはちょっと見てみたいですね。

ということで、現在資生堂のウェブサイトに「花椿アーカイブ」というコンテンツがありました。
これは過去の「花椿」や「資生堂グラフ」「資生堂月報」などの一部を見る事が出来る、というものです。

紹介文によると、

『花椿』は、1924(大正13)年に消費者向け機関紙として創刊された『資生堂月報』と1933年(昭和8)年創刊された『資生堂グラフ』を前身として、1937(昭和12)年に誕生しました。
欧米の流行事情から文化教養に関する読み物、美容情報と、生活を彩る幅広い情報を発信していました。時代、風俗の変遷をお楽しみ下さい。


という事です。





興味のある方は一度のぞいてみてはいかがでしょう。

花椿アーカイブ
花椿アーカイブ


アーカイブは更新されて数が増えていたりする感じ。
歴史ある会社には歴史的資料あり、それを無駄にしない資生堂はエライなぁ。
褒めてもなんにも貰えませんてば。
 
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2012年10月15日

牧逸馬著「世界怪奇実話」を読む人に

さて、牧逸馬(まきいつま)という人物は、御存じの方は御存じの通り、昭和初期の作家で、牧逸馬、谷譲二、林不忘という三つの名前を使い分けた流行作家です。
林不忘は御存じ「丹下左膳」の原作者、谷譲二は自身のアメリカ渡航経験を題材にした「めりけんじゃっぷシリーズ」とか、そして牧逸馬はこの「世界怪奇実話」などのノンフィクションやミステリー小説、という事になります。

世界怪奇実話第一巻


「世界怪奇実話」はその名の通り世界中で実際にあった猟奇的な事件を題材に構成した読み物です。
私がこの本を読んだのは昭和50年に発行された現代教養文庫版全四巻なんですが、現在は青空文庫でも一部読むことが出来ます。
犯罪実話を昭和初年代の文体で読むのが好きな人にはうってつけの作品集、そんな人がいかほどおられるのかはともかく。

で、この現代教養文庫版には、巻頭にいくつかの写真が掲載されています。
実際の事件当時の報道写真で、犯人や被害者の顏、犯行現場など、これを見てから読むとリアリティーもひとしお、という事ですね。
しかしそんな現代教養文庫は潰れてしまって今は買えません。
私は第一巻を紛失していたんですが、先日の古書市で見つけてなんとか四冊揃える事が出来ました。

という事で今回は、青空文庫でこれから「世界怪奇実話」を読む人のためにそれらの写真を掲載しておこう、というのが主題。

クリックすると文字が読めるくらい拡大出来ます。
タイトルのリンクは青空文庫の作品ページへ、リンクの無いものは公開されていないか作業中の作品です。


世界怪奇実話巻頭写真01
浴槽の花嫁

世界怪奇実話巻頭写真02
浴槽の花嫁 都会の類人猿

世界怪奇実話巻頭写真03
戦雲を駆る女怪

世界怪奇実話巻頭写真04
戦雲を駆る女怪 肉屋に化けた人鬼

世界怪奇実話巻頭写真05
双面獣 血の三角形

世界怪奇実話巻頭写真06
双面獣

世界怪奇実話巻頭写真07
生きている戦死者

世界怪奇実話巻頭写真08
土から手が

世界怪奇実話巻頭写真09
白日の幽霊

世界怪奇実話巻頭写真10
街を陰る死翼

世界怪奇実話巻頭写真11
街を陰る死翼

世界怪奇実話巻頭写真12
チャン・イ・ミヤオ博士の罪

世界怪奇実話巻頭写真13
アリゾナの女虎

世界怪奇実話巻頭写真14
アリゾナの女虎

世界怪奇実話巻頭写真15
アリゾナの女虎

世界怪奇実話巻頭写真16
ロウモン街の自殺ホテル モンルアリの狼


本名長谷川海太郎、二十歳でオハイオ州のオベリン大学に留学、しかし学校はすぐに辞めて働きながら米国各地を放浪します。
谷譲二のアメリカものに現地の匂いがするのは、この時の生活体験のあるが故かもしれません。
35歳という若さで亡くなっているので、作家活動は昭和の最初の10年間でした。

牧逸馬夫妻
自宅にて夫人と

 
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2012年10月02日

漫画雑誌流行す

さて、戦前の雑誌表紙を見てみましょう。
今回は漫画雑誌。

現在我が国は世界有数の漫画大国ですが、実は戦前から漫画は大衆に親しまれたメディアとして流行していました。
多くの作家が活躍し、雑誌もたくさん作られていたようです。

そんな日本における漫画の歴史などについては、ええと自分で調べてね。

けして漫画に詳しいわけではないので、そのへんは置いといて、画像だけ見て行きましょう。
画像はクリックで少し拡大します。


東京パック
「東京パック」昭和五年九月号(明治三十八年創刊)

北沢楽天主筆により創刊された東京パックは断続的に昭和十六年まで発行されたそうです。
この表紙のころは、第三次東京パックということになります。
絵は小野佐世男氏、小さな文字を読むと
「銀座の没落(タイガーの身売りにライオンの落魄と歓楽の銀座にも秋の訪れ!!)」
とあります。
タイガーやライオンというのは銀座にあった大手のカフェーですね。


東京カーツーン
「東京カーツーン」大正十五年九月号(大正十五年創刊)

サインは萩生田筆?でしょうか。
to your health
踏んづけている女の人達、飲んでいる黄色いお酒。
う〜んよくわからない。
でも大正時代にカーツーンなんて、ハイカラですね。


ユウモア
「ユウモア」昭和二年二月号(昭和元年創刊)

絵は宍戸左行氏。
プロ意識はレントゲン線なり、太った資本家が隠しているのは「剰余価値」
ここで言うプロ意識とはプロレタリアートの事ですね、剰余価値とはマルクス経済学の用語。

このように当時盛んであった社会主義運動と明治以来からの風刺漫画の伝統が重なって、社会や世相、政府などを批判的に見る傾向が一つの流れとしてあったようです。
しかし当然そこには官憲の手が入り、作家や編集者から検挙者を出したりします。

その中で社会主義とは離れた娯楽要素主体の漫画をめざす人々もいるわけで、それらが共存した形で続く昭和四年五年あたりが戦前の漫画雑誌ブームの頂点と言えるかもしれません。


漫画時代
「漫画時代」昭和四年六月号(昭和四年創刊)

煙幕の図、彼女が靴下を直す姿を煙草の煙で隠す彼氏。
須山計一氏作、須山氏は以前ご紹介した「日本漫画百年」の著者。


月刊マンガ・マン
「月刊マンガ・マン」昭和五年三月号(昭和四年創刊)

ちょっとオシャレな表紙、作者はわかりませんでした。
右下の小さな文字はロシア語?
マンガ・マンは雑誌としては2年足らずの寿命でしたが、ここを母体とした若手漫画家たちが日本初の漫画プロダクションと言える「新漫画派集団」というグループを作ります。


カクテール
「カクテール」昭和五年一月創刊号

銀座、カフェー、ジャズ、円タク、そんなカクテールな表紙。


戦前期に言論や表現の自由が大きく失われる一つの契機が昭和六年の満州事変だと言われています。
漫画雑誌もまた、それ以降翼賛と抵抗の間を揺れる事になったようです。


バクショー
「バクショー」昭和十四年六月号(昭和十三年創刊)

表紙は東京パックも描いていた小野佐世男氏
こういう感じの女性の絵が得意だったんですね。
雑誌としては風俗世相漫画
でしょうか。


カリカレ
「カリカレ」昭和十六年一月号(昭和十三年創刊)

カリカレ?イタリア語かな。
表紙は写楽。
最後までがんばった風刺漫画雑誌といわれていますが、主催者の逮捕によって三年ほどで力尽きます。


大阪パック
「大阪パック」昭和十六年三月号(明治三十九年創刊)

東京パックに対抗して作られた大阪パックも明治以来の歴史ある風刺雑誌、しかし昭和十六年にもなりますと健全漫画雑誌となり風刺は封印して戦後まで生き延びます。
廻って来た回覧板には「春が来ました」ってなんて健全。


漫画 1943
「漫画」昭和十八年二月号(昭和十五年創刊)

「漫画」という雑誌は大正六年に創刊された物もあるようですが、この表紙は昭和十五年近藤日出造氏によって創刊された漫画総合雑誌「漫画」の物です。
大政翼賛会宣伝部推奨となっています。
近藤氏は戦後になって、この時期の国策的な活動にたいして非難も受けますが、一方でいち早く漫画家をまとめ、策として商業誌よりも協会機関誌の形を取る事で「漫画」の官僚統制を免れた、という話もあります。
いずれにせよ「漫画」は戦後の昭和二十六年まで休刊せず刊行され続けたそうです。
このへんややこしいので自分で調べて判断してね。
表紙は近藤氏描くところの鬼のような顏の合衆国大統領ルーズベルト。
うまいですね。
戦後の漫画しか知らない私などは、なんか手塚チックだな、なんて思いましたよ、しかも後期の。
もちろん手塚治虫はこの頃まだ中学生で、世の中には出ていません。
戦後になって近藤日出造氏は少年漫画批判を展開するのですが、そのころ売り出しの手塚治虫の画力は認めていたそうです。
何だかおもしろいですね。

 
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2012年09月20日

昭和8年のお彼岸

さて、時が経てば世の中の姿も変わってゆくものですが、そんなに変わらない所もある、たとえばそれは神社仏閣。
というわけで、お彼岸ですね。
昭和8年の大阪四天王寺のお彼岸風景がありましたのでご紹介。

四天王寺 昭和8年

アサヒグラフ 昭和8年10月4日の記事から

亀井水
四天王寺 亀井堂
極楽から流れて来たと云う長い旅の水が石の亀の口から湧いて出ている。
無常院で坊さんの読経と鐘の音で此の世へ久しぶりに帰って来た◯◯家先祖代々氏の霊は、一枚いくらの経木にのり移って此の亀の水をあびて又もとの十万億土へ帰って行くのである。

四天王寺 亀井堂 現代2

四天王寺 亀井堂 現代

亀井堂の経木流しは今も盛んです、お彼岸は人と経木でいっぱいになります。
(写真は仏像ワンダーランドから)


経木書き
四天王寺 経木書き
経木書きはお彼岸の序曲です。
「何なに万松院?万歳の万と松竹梅の松やナ」
「一枚一銭!三枚二銭にしときいナ」
と取引が行なわれる、戒名の忘れたのは凡て◯◯家先祖代々にしてしまう、これでは亡者がルンペンになる。

四天王寺 経木書き 現代

経木書きもお馴染み、天王寺駅から続く参道の各所に経木を書くテーブルがあります、さすがに代書する人はあまり見かけなくなりました。
(写真は街コミZAQから)


病魔退治の槌
四天王寺 木槌たたき
金堂の床下に古びた切り株と槌が置いてある、由来天王寺はお伽噺的なものが多くこれもその一つである。
槌で切り株をたたいてそれで自分の病気の所をたたけば間もなく病気全快と云うのである、或るサラリーマンはためしに自分の財布をたたいてみたけれど月給に変わりはなかったそうである。

四天王寺 木槌たたき 現代

記事には金堂の床下とありますが、現在は南門の近くにある萬燈院の木槌たたきが同じものなのでしょうか。
(写真はフォト蔵から)


亀の子
四天王寺 亀の子
亀の子を誰か知らないが買ってくれました、亀の甲へ何か書いています「ぜんそく」と書いたらしいです、そしてもとの古池へなんまいだと投り込まれました。
買取人はこれで「ぜんそく」がなおるものと思って楽しそうに帰りました。

四天王寺 亀の池 現代

現在亀の池にいるのはほとんどがミシシッピアカミミガメです、この亀が日本に入って来たのは戦後の事らしいので、この記事のころには日本の亀が住んでいたのでしょう。
(写真はフォト蔵から)


蛸をどり
四天王寺 蛸眼鏡
これは又なつかしい明治末期の少年の夢をたのしませた蛸をどりが今もなおお彼岸の子供客を相手に踊っている。
蛸が馬に乗って戦争をするのである、それを八つに見える眼鏡を借りて見る時に吾等は楽しい夢の中にいる、ハイこれで一回の終り金三銭の泣き別れの口上で主演の蛸氏に三銭の眼鏡代を払ってホットする。

さすがにこれは見た事ない。
この時すでになつかしいとか言われている大道芸、「タコタコ眼鏡」とも呼ばれていた四天王寺の名物だったそうです。

天王寺蛸眼鏡

八つに見える眼鏡(借り代三銭)というのはこんな感じのものか。
(岸本彩星童人 天王寺の蛸々眼鏡)

四天王寺 蛸蛸1
江戸時代の蛸蛸

四天王寺 蛸蛸2
明治以降の蛸蛸


やいと
四天王寺 やいとほどこし
やいとのほどこし、どなた様も無料ですぞ、青天井の下でのひと辛抱、あついと飛上がる時にはチャンと病魔が退散しとるデス。
この不況時代に無料の御灸とはと感心しているともぐさを買って帰らねばならぬ事になります。

これも今は見た事ないですね、四天王寺らしい風景とは思いますが。


御詠歌
四天王寺 御詠歌
この日おばあさんは大変御機嫌がよろしい。
おばあさんは岸うつ波と唄いながら声は悲しくとものどかなお天気でと云いたげな目をしています。
リーダーのおばあさんはリーグ戦の応援団長のように扇を持って踊りながらリードしています。

これは今も踊ってる、たしかにおばあさんが踊っています。
この時も今も、ずっとおばあさんが踊っているんですね。



四天王寺は昭和20年の空襲でほとんどが焼けてしまいました。
現在の建物は戦後に再建されたものなのですが、その中の風景は戦前やさらにその前から続く歴史のままに残されているものも多いようです。
なんといっても日本最古ですからね。

私自身は信心深い人間ではないのですが、一時期ほんとに日常の通り道としてよく歩いておりましたので、何だか愛着のある場所なんですよ。
お近くにお越しの節はぜひお立ち寄りを、て自分の家みたいに。


天王寺参りといえば六代目ですね。



かつてのお彼岸の様子が楽しくわかりますよ。

 
posted by nakaco at 21:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 昭和前半期