2010年08月23日

昭和8年には何歳?

ブログやサイトに音源などを掲載しようとした時に、気になるのが権利の問題
で、作者や歌手の生没年などを調べる事があるんですけど
そんな時に面白いのは、たとえば作家同士の関係性とか、年齢差、意外に若いとか、あの人とこの人が同い年か、というような事がわかるときです

ではいっそのこと、ある年を基準にしてズラッと年齢順に並べてみたらどうでしょう、というのが今回の記事

基準にしたのは1933年(昭和8年)です
この年にした理由は特にないですが、’30年ではちょっと早い、’35年はちょっと遅い、’33年ぐらいがなんとなくイイ感じの年かなと、思いまして

1933年(昭和8年)
レコード国産電気吹き込み開始から5年
初のトーキー映画「マダムと女房」から2年
日劇完成
翌年東京宝塚劇場完成
東京音頭流行
国連を脱退したり
小林多喜二が殺されたり
ヒトラーが首相になったり
キングコングが公開されたり
豊田織機に自動車部が出来たり
現在の天皇陛下、明仁皇太子がお生まれになったり
そんな1933年にあの人は何歳で何をしていたのでしょう
 

 
今回は流行歌関係を中心に
ところどころに音楽に関係のない人も混ざっていますが
それはまあ比較のためです

記事中の「この年」というのが、1933年(昭和8年)のこと
( )内は年齢、この年の誕生日を迎えた満年齢です


佐々紅華(47)
この人は現在の東京工業大学工業図案化出身。時雨音羽、西條八十らとともにレコード界創成期をになう。
この年埼玉に自宅として枕流荘京亭を建てる、なんと3万平方メートル!
現在は高級料理旅館。

佐々紅華1932年
佐々紅華(1932年)

中山晋平(46)
「カチューシャの唄」「ゴンドラの唄」は大正三年作の御大。
「東京行進曲」’29年、「銀座の柳」’32年、この年は「東京音頭」「天竜下れば」

佐藤惣之助(43)
佐藤紅緑門下、最初の詩集は大正5年。この年の「大阪音頭」は実質流行歌第一作。
「赤城の子守唄」は翌年。

西條八十(41)
我が国流行歌作詞界の巨人、この年は「東京音頭」「サーカスの唄」「十九の春」など。
東京行進曲は’29年。
1960年代まで作品は膨大。

堀内敬三(36)
この人マサチューセッツ工科大学を出ている!
この頃はNHK洋楽主任、’35年から松竹蒲田音楽部長兼日本大学教授。
「あお空」「アラビアの唄」は、’28年。

佐藤千夜子(36)
「東京行進曲」から4年。
イタリア留学中、翌年帰国。

藤本二三吉(36)
前年ビクターからコロムビアへ移籍「祇園小唄」「女給の唄」「アラその瞬間よ」などは’30〜’31年ビクター時代。
藤本二三代は夫の連れ子。

天野喜久代(36)
浅草オペラを退いた後、’29年から東京松竹少女歌劇団の音楽教師に。
この年古川緑波と歌った「イッチャついて/三人フウさん」(ニットー)以降のレコードは不明。

佐藤千夜子、藤本二三吉、天野喜久代
佐藤千夜子、藤本二三吉、天野喜久代は同い年

島田芳文(35)
コロムビア専属作詞家、この年「恋の大島」。
「丘を越えて」「キャンプ小唄」「スキーの唄」など古賀政男作曲、藤山一郎歌でヒットさせたのは’31年。

藤原義江(35)
すでに我らのテナー。
’30年から欧州研鑽、’32年帰国、’34年藤原歌劇団の前身「東京オペラカンパニー」公演。

東海林太郎(35)
実はプロになった年、キングレコード(当時は講談社レコード部)からデビュー、「赤城の子守唄」は翌年ポリドールから。

時雨音羽(34)
大蔵省主税局出身、この頃はビクターレコード文芸顧問、「出船の港」「鉾をおさめて」「浪速小唄」「君恋し」など日本レコード界草創期’28〜’29年の仕事は30歳前後。

藤浦 洸(34)
伊庭孝門下、’30年からコロムビアレコード文芸部でジャズの訳詞など。
「別れのブルース」のヒットは’37年。

二村定一(33)
エノケンとピエル・ブリヤント時代。

佐伯孝夫(31)
西條八十門下生、国民新聞社社員をしながら「さくら音頭」の作詞は’34年。
作詞家としての専属契約は’39年ビクターで。

サトウ・ハチロ−(30)
この時期作詞家としては主にポリドールで。
「二人は若い」は、’35年テイチク。

サトウ・ハチローと佐伯孝夫
サトウ・ハチローと佐伯孝夫(1932年)


江口夜詩(30)
海軍軍楽隊を退役し流行歌の道に進んだのが’31年。
「忘られぬ花」’32年。
この年は「十九の春」

奥田良三(30)
この年ベルリン音楽大学卒業、翌年「これぞマドロスの恋」

徳山 l(30)
「侍ニッポン」「ルンペン節」’31年、「天国に結ぶ恋」’32年、「東京音頭」’33年。

古川緑波(30)
「笑いの王国」旗揚げ。

小津安二郎(30)
「東京の女」「非常線の女」「出来ごころ」

古賀政男(29)
明治大学卒業後コロムビア専属が’31年、この時藤山一郎と出会い、「影を慕いて」「丘を越えて」「酒は涙か溜息か」がヒット。
この年は「サーカスの唄」、翌年テイチク移籍。

小唄勝太郎(29)
この年「東京音頭」大流行。

榎本健一(29)
ピエル・ブリヤント時代。

淡谷のり子と榎本健一
淡谷のり子と榎本健一(1930年)プペ・ダンサント時代

J.ワイズミュラー(29)
ターザンシリーズは前’32年から。

楠木繁夫(28)
’28年東京音楽学校(現東京芸大)除籍後各社で変名吹き込み時代。
専属契約は’34年テイチク「白い椿の唄」「緑の地平線」は’35年。

四家文子(27)
東京音楽学校卒業後ビクターからデビューは’29年。
前年「銀座の柳」は佐藤千夜子の渡欧により四家が歌う事になった。
「天国に結ぶ恋」のデュエット相手徳山lは音楽学校同級。

服部良一(26)
この年上京、ダンスホール「ユニオン」のサックス奏者に。
翌年ニットーレコードへ、コロムビア入社は’36年。

佐々木俊一(26)
前’32年、作曲デビュー作「涙の渡り鳥」続けて「島の娘」と連続ヒット。
この年は「僕の青春(はる)」藤山一郎ビクター専属第一弾。

淡谷のり子(26)
この頃はコロムビアにおける洋楽カバー時代。
’31年の「私此頃憂鬱よ」は藤山一郎「酒は涙か溜息か」とAB面。

川田晴久(26)
川田義雄で「永田キング一党」時代。
あきれたぼういず結成は’37年。

ディック・ミネ(25)
立教大学卒業後バンドマン時代。
「ダイナ」でデビューは翌’34年、自ら訳詞、編曲、演奏も。
テイチクに推薦したのは古賀政男。

川畑文子とディック・ミネ
川畑文子とディック・ミネ(1935年)「恋は荷物と同じよ」

中野忠晴(24)
前年武蔵野音楽学校卒業後コロムビア入社。
この年コロムビアリズムボーイズとして「山の人気者」を吹き込む。

島田磬也(24)
西條八十門下、翌年作詞家デビュー。
「裏町人生」は’37年。

古関裕而(24)
作曲は少年期から、19歳でロンドンのチェスター楽譜出版社募集の作曲コンクールに入賞。
’30年山田耕筰の推薦により20歳でコロムビアの専属作曲家となる天才。
ちなみに「六甲おろし」は’36年。

田中絹代(24)
アイドル・スター「伊豆の踊り子」(五所平之助監督)

伊藤久男(23)
この年古関裕而のすすめでリーガルレーベルからデビュー「今宵の雨」
同年宮本一夫名義でコロムビアからもデビュー「ニセコスキー小唄」

渡辺はま子(23)
この年武蔵野音楽学校卒業後横浜高等女学校音楽教師、をしながらポリドールのテストを受ける、もビクターからデビュー「海鳴る空」。

小林千代子(23)
’31年松竹楽劇部入団、と同時にビクターから金色仮面(ゴールデンマスク)として覆面デビュー。
覆面期間は約1年。
「涙の渡り鳥」はこの年公開同名映画の主題歌。

藤山一郎(22)
この年東京音楽学校卒業後ビクターと専属契約。
「丘を越えて」「酒は涙か溜息か」「影を慕いて」などは在学中の’31〜’32年コロムビアで。

古賀政男と藤山一郎
古賀政男と藤山一郎(1931年)

松平 晃(22)
この年「サーカスの唄」
前年からのレコード吹き込み問題で、東京音楽学校中退。
変名は大川静夫、松平利雄、池上利夫、松平不二男、小川文雄、柳沢和彦など。
松平晃としての正式契約は翌’34年コロムビアと。

灰田勝彦(22)
立教大学生。
兄晴彦のバンド「モアナ・グリークラブ」のボーカル。
翌年緑川五郎でテイチクで吹き込み。
灰田勝彦デビューは’36年ビクター。

ミス・コロムビア 松原 操(22)
デビューの年。
ビクターの「金色仮面」をうけてのコロムビア版覆面デビュー。
この年「十九の春」
後の夫霧島昇のデビューは3年後。

リキー宮川(22)
この年来日。
翌年5月にはコロムビアより「朗らかに暮らせ」

笠置シズコ(19)
松竹楽劇部(大阪)、三笠静子時代。
初レコードは翌’34年「恋のステップ」コロムビア。

水の江瀧子(18)
いわゆる「桃色争議」の年。
争議委員長。

川畑文子(17)
ハワイ生まれロス育ち、前年初来日。
この年コロムビアと契約「三日月娘」

平井英子(15)
変声期による童謡歌手引退は翌’34年。
武蔵野音楽学校で学んだ後再デビューは’36年。

シャーリー・テンプル(5)
大スター。
日本では’35年公開「可愛いマーカちゃん」で人気爆発。
’36年にはポリドールから日本語の歌も。

小林一三(60)
起業家、阪急電鉄社長
我が国の興行、娯楽業界の改革者
翌’34年阪急社長を辞任、阪急東宝グループ会長に。

小林一三とシャーリー・テンプル
小林一三とシャーリー・テンプル(1935年)


ああしんど。
細かな間違い、文字の打ち間違いなどあるかもしれませんが、気にしない

気になるほどの間違いは修正を

あの人の名前がないじゃないの!
という場合は追加も可
posted by nakaco at 15:16| Comment(8) | TrackBack(0) | 昭和前半期
この記事へのコメント
nakacoさん、

おつかれさまです。
おかげさまで昭和8年に旅してきた気分になりますね。

昭和8年といえば、この年の5月に大阪地下鉄の心斎橋、梅田間が開通したのでしたね。
大阪の街ではいたるところで蓄音器から「大大阪地下鉄行進曲」が流れていたとか。
歌っているのはもちろん徳山lと小林千代子。

というわけで、
私の「あの人の名前がないじゃないの!」
は、小林千代子さん23歳
(すいません、よけいなことを。追加しなくてもいいですよ)

あと、細かいことですが、「侍ニッポン」は昭和6年4月の発売です。
私は徳山lの大ファンなので、ちょっと気になって・・・
Posted by アネモネ at 2010年08月23日 22:58
>アネモネさん
こんばんわ

確かに、
「侍ニッポン」は昭和6年でした
こういう間違いが必ずあると思っておりました
ご指摘ありがとうございます
まだあるかもしれません

小林千代子、美貌で美声の金色仮面
イイですね
入れときましょうかね

とりあえず「侍ニッポン」の修正しときます
Posted by NAKACO at 2010年08月24日 00:09
お久しぶりです。ご無沙汰しておりました、のっとです。
凄い情報量ですね!見ていてとても楽しいです。
私はあまり昭和前半期のことは良く知らないので、とても勉強になりました。

ちょっと前の内容になりますけど、「銀座モダンガール」はほんと素敵な歌ですね。アレは昭和5年とのことですけど。
あの歌を歌っていらっしゃる、河上喜久代さんは昭和8年にも歌手活動をされていたのでしょうかね?謎は深まるばかりですが。
flash動画とても素敵でした。flash動画を制作するのはやっぱり難しいですかねぇ?私もいずれ挑戦したくなりました。
Posted by のっと at 2010年08月24日 16:41
>のっとさん
おひさしぶりです

河上喜久代さんの名前は昭和7年以降なかなか見当たりませんね

Flashは私もサイト開設してから触りだしたのでよく解ってないんですけども、私のように静止画を少し動かしたりするだけならとても簡単ですよ
ちゃんとしたアニメーションは、現在挫折中です
Posted by NAKACO at 2010年08月24日 23:29
私の父がこの頃(昭和初期)ポリドールの青山スタジオで吹込技師をしていました。ドイツ人技師のブーレさんと一緒に。流行歌手では東海林太郎、奥田良三、(淡谷のり子や芸者さんの歌手)らがいて、作詞のサトーハチローは事務所でうろうろしていたと話してました。
Posted by U at 2011年11月13日 19:04
>Uさん
こんばんわ
当時の吹込技師がどのような事をしていたのか私にはよくわからないんですけども、なんかカッコイイですね、録音技師、青山スタジオ。
ポリドールは親会社がドイツのグラモフォンという会社だそうですから、同僚の人もドイツ人だったんでしょうね。
Posted by NAKACO at 2011年11月13日 20:21
ポリドールの吹込録音技師のブーレさんはドイツ人です。この方の家族の写真もあります。阿南社長の写真もあります。当時の写真を見て気づいたのですが、上野音楽学校(現東京芸大)女生徒の制服は和服でしたね。そのコーラスの写真があります。グラムフォンは第一次大戦でドイツが負けたので、マークも賠償で取られ、現在のラッパが2つある蓄音機のようなマークになったと父がはなしていましたが。ハテ?
Posted by u at 2011年11月27日 11:05
>uさん
こんばんわ
日本ポリドールは、ドイツポリドールの子会社や日本支社ではなく、設立時から完全な日本資本の会社だったようですね。
戦前に使われていたラッパが2本みたいなマークは、かわいくて断然良かったと思います。
Posted by NAKACO at 2011年11月27日 21:38
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